私たちの『時間』について考える。
人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。
これは『山月記』の作者・中島敦の言葉だが最近このことがよく思い浮かぶようになった。何もしないであと何十年も生きる(生きられる)とすればあまりにも退屈で鬱になりそうだし、たとえば今33歳の私が、3年後までにはこれを、5年後にはこれを達成!と自分の夢について思いを馳せる時、時間はとてつもなく、恐ろしく足りないように思う。
「あなたにとって、お金と時間はどちらが大切?」という問いもよく見かける会話の種だが、若い頃の自分にしたらこれは迷いようもなく即答できる問いだった。
お金だ。
お金があれば好きなものが買える。好きな場所へ行ける。自由が手に入る。楽ができる。考えることといえば、そのぐらいだった。
だが今は違う。時間は有限だ。日々のしがらみに惑わされていれば時間はあっという間に流れてしまう。人間が何かを学び、それを知識に昇華させるにも、それ相応の時間が必要だ。費やした時間は経験となり、その人を支える。
会社に勤めることだってそうだ。私達は時間を会社に売り、その対価として給料を得ている。時間とはつまり私達の命だ。生そのものだ。
そんな風に考えると、たとえばストレスだらけで特に前進のない仕事に一日の大半の時間を売り、対価も大して高くないとしたら、それこそこんなことしている時間あるの?という話だ。自分がそのことに心のどこかで納得できていないとしたら、必ず何歳かの時点で後悔をすることになる。
お金はそこから頑張れば何とか稼げる可能性はあるが、時間は二度と戻らない。それが怖い。
そんなことを思うとき、人は確実に死に向かっているのだという事実も実感する。だからこそ、したいことをする努力と、したくないことをしない努力をしなければいけない。それが自分の時間を生きていくということ。
私の知人は70歳を迎えた時に、自分が残りの人生でできるであろう食事の回数を計算し、妥協せず食べたいものを食べておくと決め、行きたいお店を片っ端からリストアップしたのだという。なるほど、と思った。そうした計画は、確実な寿命を知る術のない私達をいとも簡単に裏切る可能性もあるが、そんな風に自分に残された時間のことを思うひとときは素敵だと思う。
時間の価値に気付いてからが本当の人生と言えるのかもしれない。やりたいことをやろう。
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